「個人対集団における場の創成への目線」からのコンペティション by 山下愛美 (Vol.2,No.5,2022.10.22)

コラム『協創&競争』

コラム『協創&競争』

当学会は、協創、競争、そして、サステナビリティを結びつける「場(領域)」に関わる研究調査の成果を蓄積することにより、開かれた科学の目線から新たな学問を深化させることを目指しております。それらの場(領域)に関わるトピックテーマを「Vol.」(巻)として、それぞれの「Vol.」の中に、おおよそ10個ほどのコラムを連載することにしました。 「安心・安全」「資源循環」「e-スポーツ文化」などの研究分科会に参加する方々からのコラム投稿も増えることを期待します。(JASCC.ORG事務局)

 コンペティション(競争;Competition)について、「#個人対集団の場」、「#CPS」、「#指向性」、「#コネクタビリティ」、「#協創」のコンセプトを使いながら考えてみよう。

「個人対集団における場の創成への目線」からのコンペティション

私達は「個人」であると同時に「集団」を形成する一要素である。「個人及び集団」には規模の大小及び特定の「思想」「感情」「目的」「意識」という指標により「後天性」、「先天性」、そして、「指向性の有り、無し」の4つの特性に分けられる。我々が生きる基盤、つまり「場」を「社会」と捉えると、「場」の創成とは「集団」の創成に他ならない。ここには多様な価値観から発生する「場」そのものへの「距離感」及び「場」にいる相対的な相手への「距離感」という「境界」(曖昧な感覚的な物事のしきい値)が出現し、バーチャル(仮想)とリアル(現実)が入り混じる社会となる。この「距離感」の差異に基づくコンペティション(競争:Competition)が新たな価値創造を生み出す。

「個人対集団(Individual vs. Groups)」そして「自動車社会」の変容

皆様方の一人称はなんであろうか?日本語においては「私」「俺」「僕」「自分」などであり、英語であれば「I」である。このように一人称として使われる「個人」。この「個人」を定義するものは一人の人間であり、人間としての地位を持つ者が持ちうる権利は、日本においては憲法で保障されている。この「個人」に対する対義語は「集団」や「社会」である。 

なお、中間的概念として「法人」があり「特定の集団に対しておおむね個人の権利を有すると見做すこと」が法の下に定められている。

集団とは、大きく2つに大別される。一つは「小集団」。絶対数であれば二人でも集団であるし、相対的に考えれば300人規模の会社なども「小集団」であるといえる。これと対比されるのは「大集団」であり、例えば、自動車産業などの系列で働く「集団」は膨大な人数であることは想像に難くない。さらに世界に目を向ければ、我々は「日本人」というカテゴリに入る「集団」であるともいえる。つまり、「集団」の大小は相対であり絶対的ではないが、個人の頭数というような単位を用いて客観性を示すことが慣習となっている。

「小集団」の塊が「大集団」を形成すると考えた場合、意識的または後天的な「小集団」の集合体が「大集団」の中に創り出されることがある。例えば、一定の「思想」「感情」「目的」が一致する小集団である。その小集団を構成する各「個人」の利害関係は一定程度存在していたとしても「思想」「感情」「目的」「意識」の四面において同種の表現行為を示すがゆえに、内心のみならず外形上も同類と見做される可能性が高い。まず、この種の小集団の類型を「後天的指向性(Acquired Directivity)」と定める。一方、先天的または容易に変更できない属性の「小集団」の塊が「大集団」を形成する場合には、各「個人」の「意識」の方向性が異なることが多発し、その「大集団」を表す属性は「国籍」等の記号表記に類したものに過ぎないが、総体としての指向性を示す。これを「先天的指向性(Inherent Directivity)」と定める。それらの「指向性」が無い「集団」の存在も否定はできないゆえに「集団」は「先天的」「後天的」「指向性有」「指向性無」の組合せにより、多様性のある類型となる。

そして「集団」を構成するのは「法人」を考えに入れたとしても「個人」が基底にある以上「個人の多様性」は「集団の多様性」を媒介として観るのが適切であろう。

 仮に「大集団」を自動車社会に置き換えてみよう。そして「小集団」を軽自動車、乗用車、特殊車両、あるいは、ガソリン車、EV車、ディーゼル車など「あるカテゴリ」に合わせて置き換えてみる。どこまでの腑分けを行えば、一定の「思想」「感情」「目的」が一致する「後天的指向性」を観ることができるのであろうか。あるいは「先天的指向性」が無いと確信できるのであろうか。

 少なくとも、近時、仮説的な想定に過ぎないが、後天的指向性が希薄になりつつあるとすれば、自動車社会にはいかなる新たな指向性が発現しているのであろうか。

「個人」とモバイル化した自動車社会の新たな「場の創成」

「個人」の生きて立つ基盤、つまり「場」を「社会」と捉えると「場」の創成とは「集団」の創成に他ならない。絶対数としては2以上の人間が構成し、相対的には大小さまざまな「集団」が創生されることで「場」が形成される。先天的かつ容易に変更できない属性を持つ「個人」の集合体である「小集団」の塊が「大集団」を形成する場合を「社会」と規定してもよいだろう。

そして、意識的または後天的な「場」は、一定の「思想」「感情」「目的」が一致する集合体をある程度「掌握」あるいは「観察」することが可能な場合、その変異を知ることができる。例えば「世論」や「顧客の声」を丹念に集計し、更に「時間の差異」や「環境の差異」などの手法を踏まえ、好きなアーティストのコンサート等のごとく実証的なプロセスを加味すれば「後天的指向性」の変異を知ることは困難ではないだろう。一方で先天的または容易に変更できない「場」を「掌握」あるいは「観察」するのは、むしろ「規制」や「認証」などの枠組み、すなわち「法律」あるいは「慣行的なルールを含む規律」による法治であると考えられる。なぜならば「法律」あるいは「慣行的なルールを含む規律」という「共通意識(認識)」により、先天的または容易に変更できない「場」は一定の指向性を与えられているからである。したがって、法改正や社会慣行の変容、さらには、倫理通義の異相などを観察することによって、その「場」における先天的指向性を知ることになる。

では、上記2つの後天的指向性と先天的指向性との間に「しきい値(境目、境界)」は、あるのだろうか。おそらくそれらの境目には線引きが微妙な「競争(Competition)の領域」が存在する。

「自動運転車」の「場」を例にすれば、多様な他者が混在する。例えば、インフラと接続している自車両と、インフラによって間接的に自車両と接続している対向車やバイク、自転車に乗っている個人、道路を歩く個人や集団とが混在する。何らかの他者と繋がっている車と、繋がっていない車も混在するであろう。これら小集団の塊は、不規則なカオス状態ではなく、何らかのコネクタビリティ(接続性;Connectability)をもった隣接領域において、あたかも情報格差の環境下で競争を展開する。自動運転を実施するにはいくつか必要な技術要素があるが、最も大切なものは「自車両の正確な位置」「絶対時間における他者との相対的な距離、方角」「時間経過による他者との相対的な距離、方角の予測」である。しかしながら、この種の他者との「インフラを通じた相対関係」は、いわば、リアル(現実)空間とバーチャル(仮想)空間の接合領域における「モバイル化した新たな場の創成」であるとすれば、「先天的」「後天的」「指向性有」「指向性無」という4つの要素の組合せから成る「集団」に対して、「個人」の「思想」「感情」「目的」「意識」の四面が絡み合う複雑系の「社会システム」が作用することになる。従前の技術設計コンセプトに加えて、新たな接合領域に関わるデータ収集技術等を組み込んだシステム設計を構築する必要があるだろう。

「仮想」と「現実」が重なる「場の創成」におけるルール作り

「リアル(現実)」の「場」が「モバイル化した新たな場」と重なって、例えば、情報格差を起因にして「自動運転車」の痛ましい事故が発生することもあり得る。端的に言えば、「リアル(現実)」において30km/hの道の「区域」を50km/hで他者と繋がっていない「集団」が走っている中で、「モバイル化した新たな場で他者と連携しルール通りの自動運転車」という「個人」が事故を起こす可能性が高くなることは容易に想定できるであろう。「個人」と「集団」の関係を逆にした場合もまた同様にハイリスクになるであろう。

「リアル(現実)」は「道徳」「常識」というルール原則に基づくことがあるとすれば「法律」の定めよりも、より少し先にあるファジーな接合領域を包含することになる。すなわち、時間、構成員の属性、区域から成り立つ「場の創成」や現実と重なる「モバイル化した新たな場」に対して、その境界はファジーであることを常態としてシナリオベースの設計をしなればならない。例えば、「現実」の「区域」の中にいる登場人物は「指向性無」と「指向性有」の「集団」であり、その「場」が偶発的に発現する。これらの登場人物は「モバイル化した新たな場」と接続しているかもしれないし、していないかもしれない。この種のシナリオ設計に基づくCPS(Cyber Physical System)が重要になるであろう。

自動運転車でいえば「距離感」が運転手個人によって異なる。それは現行の「法律」に対しては(本来あってはならないが)ファジーな接合領域であり、「モバイル化した新たな場」が拡散し分散化が進めば進むほど、この「距離感」の多様化は自動運転車に限らず進行する。よって、この「個人」や「集団」のもつ「距離感」の差異が「境界」に「ファジー」な接合領域を創り出す。しかし、この「場」は単に競争の領域ではなく、むしろ「個人」と「集団」による「協創(Co-innovation)」可能な領域なのではないだろうか。「協創可能な領域」を創成し、発展させる新たなルール作りが必要になると考える。

プロフィール

山下 愛美
山下 愛美
青山学院大学大学院 法学研究科 博士後期課程(ビジネスロー) 修了
「ビッグデータを構成する非構造化データとEUデータ保護指令に関する考察」 2018年度 青山社会科学紀要掲載
「ドイツにおけるAIDS-Medikamenteに対する強制実施権の仮処分命令に関する考察」2017年度 知財学会発表、等